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『スリル・ミー』は誰の為の物語か -2023年版『スリル・ミー』を観劇して-

2018-2019年『スリル・ミー』を観劇して以来、『スリル・ミー』中毒になってしまった舞台オタクによる、2023年『スリル・ミー』を観劇して感じたことの総括。

全ペアを通し、2023年『スリル・ミー』の所感と総括になるので、各ペアの印象の違いについてまとめたものではないので悪しからず。(そちらの方も余裕があればまとめたい)

 

https://horipro-stage.jp/stage/thrillme2023/

https://natalie.mu/stage/news/540756

ミュージカル『スリル・ミー』

原作・音楽・脚本:Stephen Dolginoff

翻訳・訳詞:松田直行

演出:栗山民也

 

キャスト:

尾上松也(私)× 廣瀬友祐(彼)

木村達成(私)× 前田公輝(彼)

松岡広大(私)× 山崎大輝(彼)

 

東京公演(東京芸術劇場シアターウエスト)と愛知公演(ウインクあいち 大ホール)にてそれぞれ2回ずつ観劇。配信も全ペア鑑賞予定。

 

※当然ですが、ネタバレを含みます。

※「本作は史実を元にしたフィクションである」という認識ですが、日本版の抽象度の高さによる演出から「特段史実と照らし合わせながら鑑賞することに限定しない」が当方のスタンスです。

※また、当たり前ではありますが「あくまで舞台オタク一個人の感想にすぎない」ものになります。

 

『スリル・ミー』は誰の為の物語か

早速、野暮ったらしいお題目。

そんなもの限定するなという声が聞こえる。私とて、半分ぐらいこの手の論調には批判的ではあるがが、今回はあえて、これを問題提起に置く。

 

まず、今回『スリル・ミー』の開幕前の情報発信や宣伝で印象的だったのは、「私と彼が、恋人関係であることを提示するビジュアルではない」ことと「各ペアに“テーマ”となるような文言が添えられていない」こと。

2021年『スリル・ミー』では「各ペアの“テーマ”」が出されていた。*1

また、それ以前も特に「私と彼の愛」にフォーカスした宣伝色が強かったように感じた。

 

ただ、今回は「役者が男性二人」であること以外の情報を極力遮断しているようだった。

(もちろんあらすじは書いてあるが、宣伝物においての話で)

 

いかんせん私も『スリル・ミー』自体は3シーズン目になるため、内容自体の新鮮さはない。そのため、役者とその役者に合わせた演出が、どのようなものを提示してくれるかに楽しみ重きを置いているので、この情報の少なさは私のとってはありがたくはあった。(1回目の観劇が終わるまで開幕前インタビューを一切入れないぐらいには、事前情報を少くしてで挑んでいたので)

 

先入観を削った観劇体験

2018-2019年『スリル・ミー』の時の成河さんのインタビューで印象に残る話があった。

成河:僕は最初、この作品は女性向けのファンタジックな作品なのかと思って天王洲銀河劇場に観に行きました。ところが観てみたら、それは大きな間違いで、とても良かった。と同時に男性の観客がほとんどいないことに驚きました。だから自分がこの作品をやってみると考えた時、この環境や市場に自分が入っていくという想像がつかなくて、最初はちょっと尻込みしました。*2

 

舞台演劇市場において、女性客の割合のが多いと思うが、『スリル・ミー』に関しては特に女性が多いと感じる要因に、所謂「男性の同性愛」にフォーカスしたところによる、やや閉鎖的な空間があったのかもしれない。天王洲銀河芸場でやっていた当時のことは知らないので、そのことについては言及しないが、当時の宣伝物を見て、俗っぽく言ってしまえば「ボーイズラブ的フィクション」の色が強いなと私自身は感じたことがあった。

 

昨今、ドラマやアニメ漫画でのBL作品は、市場を拡大しているようだが、そうは言っても、メインターゲットは女性に偏ってしまったり、男女問わず好き嫌いが分かれるジャンルであると感じている。さて、少し話は脱線してしまったが、『スリル・ミー』はBL作品か?と言うと、秒速で違うと返す。史実があるから~という面は当たり前として、BLとレッテル貼りしてしまうことに違和感を感じてしまうからだ。おそらく私自身が「BL」というジャンルを、「女性のための男性同士の恋愛模様のフィクション」と捉えているからだろう。しかしこの捉えは、偏見以外の何ものでもない上に、男女で創作物の線引きをするのはあまりにも横暴だ。だが、引用した成河さんのインタビューからはこういった空気を感じた。

 

『スリル・ミー』の宣伝物に「私と彼が、恋人関係であることを提示するビジュアル」を用いないことに、客層を限定させないという考えがあったのではないだろうか。成河さんのインタビューの言葉を借りるなら、環境や市場に変化を加え、拡大していきたい意図があったのではないか。

また、「各ペアに“テーマ”となるような文言が添えられていない」という側面に対しては、『スリル・ミー』中毒であるリピーター客層に対して、「各ペアの印象の違いを各々で感じて楽しむ文化がある」からこその施策なのではないか、とも感じた。

 

『スリル・ミー』と「愛」

初めに言っておくと、私自身初めて観劇した『スリル・ミー』が2018-2019年の成河・福士ペアであり、「親スリル・ミー」が成河福士ペアであるがために、「『スリル・ミー』は愛の物語と言うには違う気がする」というスタンスの人間である。

 

しかし、初演時において演出の栗山さんが「この物語は壮大な、究極の愛の物語」と仰っていたようで、日本版の演出の土台に「愛」があることは理解できる。*3

 

実際に初演ペアである、田代・新納ペアを2021年に観劇した時は、正しく「究極の愛の物語」を感じて感動した。では、今年はどうだったか。

 

奇妙さと不気味さが先行し、愛と形容しきれなかった尾上・廣瀬ペア

「私」の支配欲の印象が勝ってしまって、愛と言うには悲しかった木村・前田ペア

互いの未熟さをリアルに映し、事件の共犯者であることを語る、松岡・山崎ペア

 

3ペアどれ見ても、素直に愛の物語とは受け取れなかった。

もちろんどのペアも、愛という要素が全く感じられなかったわけではない。だが、『スリル・ミー』における、愛の部分にあまり比重を置いていないとは感じた。

 

「究極の愛」の田代新納ペアの2021年に同時にあったのが、成河福士ペアの「資本主義の病」である。*4 それまでの『スリル・ミー』が(おそらく)愛の物語として多くのペアによる表現の違いを見せていたところに、カウンターとして登場した成河福士ペアの「資本主義の病」という解釈。何年も再演し、多くのペアが生まれたからこそできる再構築。

2021年『スリル・ミー』において、「究極の愛」と「資本主義の病」が同時にあったことで、1つの分岐点が生まれ、愛だけに縛られない解釈や表現ができるようになったのではないだろうか。

 

「特異ではない」という在り方

「未成年の時に犯した罪、犯罪史上に例を見ない」「猟奇的な殺人」と劇中でもセンセーショナルに取り沙汰されており、そのことに対して「私」は批判的または呆れたような態度をとっている。「裕福な家庭に生まれた、同性同士の恋人関係にある未成年の男性二人が、児童を殺害し、完全犯罪を企てようとした」という事実は、月日が経っても、奇異な目で見られることは避けられないだろう。そこに、「究極の愛」という解釈の肩書きがつけば、彼らの関係は特別なもので、他に例を見ないものといった色が強くなってしまうのではないだろうか。

 

『スリル・ミー』は、これからも観客を選ぶ作品であることは避けられないとは思う。しかし、普遍的であることに近づくことは可能ではないだろうか。「私」と「彼」は初めから異常者であったわけではない。「私」と「彼」が同性愛者であったことは特別視されるものではない。正しい道を踏み外してしまったことは、彼らの環境と視野狭窄に陥ざるをえなかった関係性の構築によるもの。いつか彼らのように、昔からの濃い付き合いを経てきた者同士が、突然道を間違うかもしれない。そんな人は、現代も身近にいるはず。「私」の台詞にもあるが、「もっと酷い犯罪は沢山あったし、今も起きている」のだ。この台詞が、彼らもただの人であるという印象を持ったのは今回が初めてだった。現代に語りかける教訓演劇ではないとは思うが、折りしも、実際の事件から「99年」が経った2023年である。特定の層に限定せず、色々なタイプの人にも広く見られる演劇『スリル・ミー』になっているのではないだろうか。

 

これからも、この演目が再演を重ねるごとに、新たな発見が生まれ、その時代の観客の心に爪痕を残すだろう。私はこれからも『スリル・ミー』という演目の面白さ見つけて行きたい。

 

 

最後に、

10/28~11/5までの期間で、2023年『スリル・ミー』の全ペアの配信上演がされます!

今年はライブ配信ではなく、期間限定配信です!なんと手厚い……

ぜひ、この機会に配信をご覧ください!

そして、次に『スリル・ミー』が上演される時は、ぜひ劇場の張り詰めた空気感を味わいましょう……

 

配信情報はコチラ

eplus.jp