ベルが鳴れば御着席

舞台とライブのためなら西へ東へ

デカローグ5・6[プログラムC]感想

先日、ぷれすて3の感想ブログを上げましたが、こちらもぷれすて3の鑑賞動機に同じく、繭期の『SPECTER』からの流れです。田中亨さんのお芝居が新国立劇場で見られるぞ!しかもあの仙名彩世さんと共演だぞ!という具合です。仙名さんも宝塚退団されてからお芝居が見たいと思うもなかなかタイミングが合わなかったので、今回見られて大満足です。何より本作は、5・6ともに良かったです。

 

youtu.be

https://www.nntt.jac.go.jp/play/dekalog-c/

デカローグ5・6[プログラムC]

原作:Krzysztof KIEŚLOWSKI / Krzysztof PIESIEWICZ
演出:小川絵梨子(5)・上村聡史(6)

 

新国立劇場・小劇場にて観劇。田中さんの先行でチケットを取ったのですが、2列目の下手寄りで、最初は近過ぎるかなと不安に思うも、田中さんの先行ですよと言わんばかりのベストポジションで良い席のご用意に感謝の気持ちを噛み締めました。新国立劇場も初めて行きましたが、入るだけで雰囲気があって良かったです。新国立ベアは離席中(お稽古中とのこと)でお目にかかれませんでした、残念。そしてお隣、中劇場のほうは某ヴェローナでしたね笑

以下、5と6それぞれの感想です。

 

ある殺人に関する物語

あなたはなにものをも殺してはならない

人を殺めてしまった者と、裁くという行為の下に人を殺してしまった者の話。非常にリアルな殺人描写があり、見る側はもちろん、演じる側も毎公演これをやるのはメンタル面が不安になってしまうレベルのものでした。タクシーでの殺人描写も、血糊メイクや撲殺音がリアルで、絞首刑の一連の流れは安全装置が付いているとはいえど、本当にその場で行われているようで衝撃でした。題材の時点で見る人を選ぶ内容ですけど、本当に見るに耐えられない人がいそうです。あまりにもリアルすぎるので、もう少し注釈をハッキリさせたほうが良いだろうな……とちょっと前に映画界隈でワンクションが欲しかったと文句を訴えていた層がいたことを思い出すなど……

この話には正解がないなと思いました。もちろん、一人間としての主義主張としての着地点や、腑の落としどころはあるでしょうけど、人間は生きてる間はずっと「死」という事象について、一つの答えには辿り着けないのだと思います。この正解の見えなさや、正義の不明瞭さを突き詰めた、ドロドロとした感情をそのままにした話だと思いました。

もちろん殺人は絶対に許されてはいけない行為です。事実は、「ヤツェクが男の首を絞め、頭を石で打ち付け殺した。その非道さで死刑となった」ということです。付け加えると、私一個人としては、死刑制度はあって然るべきだと思っているので、ピョトル(渋谷謙人)には同情しかねる部分がありました。しかし、ピョトルの台詞内における「報復としての死刑」「殺人の抑止力になっているか」という点は考えさせられるので、死と殺人、刑罰について考える教材にもなるだろうなと思うなどしました。……でも、「人を殺すという行為は死刑に値するほど許されない罪」だと個人的には思いますね。これは、光市母子殺害事件の遺族が仰っていた言葉で、とても印象に残っています。

本作、ヤツェク(福崎那由他)の言動はずっと落ち着きがなく、支離滅裂としていたのも印象的でした。鳩に餌やりをする人に邪魔をして鳩を飛ばし、カフェでは噛み合わない注文をし、素手で汚らしくケーキを食べ、初めから人を殺すことを考えていたようにロープを出し入れする。バックボーンも、妹がトラクターに跳ねられて死んだからとは言うものの、そのトラクターにはヤツェク自身も乗っていて、トラクターの運転手の友人は飲酒をしていたというもの。この言い方が正しいかどうか不安ですが、少し発達障害を思わせるような人物でした。計画的犯罪のように見えるも、殺人をしたこと自体はまるで自分ごとのようには感じていない雰囲気。ピョトルと面会で話すヤツェクは弱い子供のように家族のことを話し、自身の死を拒絶する。ヤツェクが殺人をしない人生を送ることができたはず、更生の余地があったかもしれないと思ってしまう。

実際にピョトルは、弁護士になった日の同じ時間にヤツェクと同じカフェにいたことで、罪悪感を覚えます。しかし、だからと言ってピョトルは裁かれはしません。ヤツェクが(恐らく)自分のせいで妹は死んでしまったと思っている形と、ピョトルの自責の念に駆られた後ろ姿が似たような形に見えて印象的でした。だからこそ、最後のピョトルの姿を見て、ピョトルは今後せめてヤツェクのような形で「人を殺してはならない」という展望を持つ話でした。

 

ある愛に関する物語

あなたは姦淫してはならない

ファーストインプレッション「ポーランド製の谷崎潤一郎」の本作。行動の事実だけ取ると、ストーカーの話なんですけど、エロスへの美しきアブノーマルさ、性への好奇心みたいなところに、谷崎潤一郎のような趣きを感じたので、私はあまり不快感がありませんでした。好み分かれそうであることは確か。パンフレットの鼎談にも出ているとおり、本作は「見る・見られる、そして見せる」と「孤独と愛」この二つを軸にした話です。……なので、ストーカーの話ですとぶった斬られるとちょっと残念かも。

始まりは、トメク(田中亨)がマクダ(仙名彩世)を「見る」ことから始まります。マクダが家に戻るタイミングに時計をセットし、望遠鏡で覗き見、用件も無く電話をかける。通知届を勝手に送ったり、牛乳配達を始めたりすることで、顔を合わせる機会を作る。トメクがマクダにそんなストーカーまがいなことをするのは「愛している」から。しかし、キスやセックスがしたいわけではない。マクダと接触をした瞬間にトメクはマクダから離れてしまい、手首を切ってしまう。

マクダは、初めはトメクのストーカーまがいの行動に警戒しつつも、少しずつ興味を持つようになり、トメクとの接触以降、トメクのことが気掛かりとなり、トメクのことを「見る」ようになる。電話をかけ、トメクの郵便局の職員にトメクのこと聞き、トメクの自宅へ行く。

そして、再開したトメクとマクダ、トメクの口から出た言葉は「もう愛していません」

なんというか、5の「殺人」が正解を模索するような話だったら、6の「愛」は想像力を駆り立てるような話でした。色々考えましたが、トメクとしては「自分と同じ「孤独」であったマクダ」を愛していたのであって、「触れ合う≒孤独同士では無くなること」で愛がなくなったのではないか……というところで着地しました。

マクダラのマリアについては触ってないので、舞台の印象オンリーです。そもそも旧約聖書もよく知らないしなあ。あと冒頭で谷崎みたいとは言いましたが、見る見られるの関係が反転するところは谷崎っぽくはないかなと。

 

「男」の役割

亀田佳明さん演じる「男」ですが。全編通してきっとこんな感じの、台詞なしの役なんですよね? めちゃくちゃ気になった。

5の「殺人」ではペンキ塗りだったり、6の「愛」では窓口局員とアパートの住人だったり……あれはなんの役割だったんだろうか。ペンキ塗りは白で十字架のような十字を塗っていたように見えたけど。『デカローグ』が全編を通し「隣人」の話であるのならば、亀田さん演じる「男」のまた、隣人ではあるけども直接関わりがある人物ではない。この話がいかに日常風景の一部であるかを印象づけるような、「そこにある普遍性」という感じは……したかな……

 

『デカローグ』5・6どちらもとても良かったです。本当は他のエピソードも見てみたいところですけど、見られないので……映画版見てみようかなあとも思ったんですが、いまいち見ようとはならないもどかしさ。ところで、本作はポーランドを舞台にした話ですが、どちらも日本人が演じてもまったく違和感のない、むしろ日本での出来事なんじゃないかとすら感じる自然さがありました。

映画版の予告メモ。6のマクダが牛乳をこぼす場面が印象的だったので、この予告版にもあって映画でも一緒なんだなあとなった。

youtu.be