そりゃあ、平成仮面ライダーの中で文句無しに面白いのって『クウガ』『アギト』だと思うんですよ(※勿論個人の意見です)。
来る『アギトー超能力戦争ー』に向けて、12、3年ぶりぐらいに『アギト』を完走しました。そして今『超能力戦争』を目前にして急いで感想をまとめています。久々に見たこともあって『アギト』ってこんなに面白かったっけと、新鮮な鑑賞体験が出来ました。そして前に見たときには気づかなかった世界観の広さと深さも感じたので、私の足りない頭と言語力で、今のこのほくほくとした気持ちをまとめられたらという具合です。
https://www.kamen-rider-official.com/riders/2/
仮面ライダーアギト(2001~2002年)
東映メインプロデューサー:白倉伸一郎
メイン監督:田﨑竜太
脚本:井上敏樹
テレビシリーズの感想がメインです。劇場版の感想はコチラ。
目次
『クウガ』への反抗という名のリスペクト
去年『クウガ』を復習したのだから、そっちの感想をまとめなさいよって感じですがいったん割愛で……そういうわけで、昨年の『超クウガ展』を機に『クウガ』の復習をしていたこともあり、『クウガ』の記憶が明るいまま『アギト』を見ていたこともあり、改めてこの流れで見ると一瞬「そんなに『クウガ』のことが嫌いか?」と思わせるような反骨精神っぷりが、作劇の節々から伝わってくるような作品だなと思いました。しかしこれが「アンチ」というわけではなく、徹底的に『クウガ』を理解した上での、『クウガ』がやってこなかった「仮面ライダー」の再解釈。『クウガ』の問題提起に対する、真摯な反対意見……といった、当時の制作の空気感を感じました。
まずはじめに、『クウガ』とはてんで違うのが「人間は挫折する、人間同士は衝突する、人間同士は裏切り傷つけ合う」という登場人物同士のギスギスとしたコミュニケーションや、人間の負の感情への傾倒です。『クウガ』という作品に唯一思う所があるとすれば、五代雄介と関わる人間のほとんど「良い人」たちばかりで、警察側、医者側、研究者側、すべてが非の打ち所がないような「出来た人間」ばかりといった印象でした。榎田さんの話が顕著だと思うんですけど「研究に没頭するあまり、息子との時間が疎かになってしまうが、ジャンの言葉をきっかけに、研究と息子との時間を両立するようにする」とか。榎田さんの私生活の犠牲は当然考えられる現実問題だったので、そこすらも視野を広げた『クウガ』はある種の潔癖さすら感じました。……ですが、そこまで「良い人、出来る人」にこだわると逆に人間味が無くなるといった印象すら持ちました。あとはまあ、個人的に榎田さんの話の展開だけはアレルギー反応があったなと思ったのもあります。さらに、これは人の感想を見て確かにと思った点ですが、反対に桜子さんはずっと古文書の解読をしているので、ロボットのようで可哀想だという感想には考えさせられました。
そんな基本的に「良い人、出来る人」が五代雄介の周りを囲っていた前年の『クウガ』に対し、『アギト』に出てくる登場人物は、非協力的だったり、拒絶的だったり、失敗を繰り返す人たちが多い印象です。この印象を序盤で印象付けるのが、オーパーツの解読をしていた研究者の三雲さんの場面。熱心にオーパーツの解読を進めるも束の間、その解読と研究は「失敗」し、「そうよ、何も起こらなかったのよ」と損壊したオーパーツの前で茫然と煙草を吸う悲壮感あふれる場面があります。そして、その後三雲さんは謎の死を遂げてしまいます。これが僅か1~6話までの話。『クウガ』からの『アギト』再視聴でまずグッと来たのがここでした。
前作『クウガ』では、桜子さんの古文書解読や榎田さんの研究開発など、グロンギの脅威と謎に対して現代のリントが頭脳で追い付く様が、回を重ねるごとに応援したくなる胸熱さがありました。この構図があったからこそとも言うべきか、『アギト』では早々に「研究者の絶望」を見せています。だから『アギト』の登場人物は「出来ない人」だと言いたいわけではなく、『クウガ』では人間の頭で未知の領域に追いつける可能性を見せたが、『アギト』はただの人間が未知(神)の領域に踏み込むことは許されない、というスタンスの違いを決定的なものにしたのだと思います。この違いが『クウガ』における「人間、リントとグロンギ」『アギト』における「人間、アギトとアンノウン」という、人間と紙一重たる存在の解釈の違い、引いては仮面ライダーの「改造と変身」の文脈の解釈の違いを感じて、改めて面白いなと思った作劇と設定でした。
他にも、『クウガ』と正反対を行く『アギト』はたくさんあるわけですが、再視聴で個人的に面白いなと思ったのが、G3ユニット組や北條透と何かと対峙する警察上層部3人組の、右に行ったり左に行ったりな無責任具合。『クウガ』では警視長クラスも四号=クウガの存在をバックアップしていくような、捜査本部は上から下まで常に未確認事件の最前線といった責任感を感じました。そこが刑事ドラマの色合いを強めたと思います。『アギト』ももちろんアンノウン事件にのめり込む刑事はいるものの、警察上層部3人組の何とも言えない「蚊帳の外」感が『クウガ』とはまるで違うという印象を強くさせていたと感じました。後になって気づいたのですが、この警察上層部3人組は通年レギュラーだったと思うのですが、「警察幹部A」「警察幹部B」「警察幹部C」という役名で個人名が無いんですね。もう意図的に「蚊帳の外」なんでしょうね。
居場所を守ることの強さは、自分を正しく知り、未来を見ること
「自分の居るべき場所があるっていいなあって。そういうみんなの場所を、俺が守れたらいいなあって」*1
五代雄介はみんなの笑顔のために戦い始めたけど、津上翔一はみんなの居るべき場所を守るために戦い始めるというこの違いは並べて見ると趣深いですね。 『アギト』という物語は「居場所」の物語であったと思います。記憶喪失であってもどこか楽観的な翔一は、美杉家の家事を通しての帰る場所を守る人と、アギトとしてアンノウンの脅威から不特定多数の日常を守る人でもある。
「翔一くん。人の居場所を守るために戦ってきたのに、なんで自分のためには戦えないの?」
「自分のため?」
「そうだよ。人のためにはあんなに勇敢だったじゃない。なら、自分のためにも勇気を出しなよ。最初から怖がってちゃ、勝てるものも勝てないって。自分のためにも戦いなよ翔一くん! よく分からないけど、それが人を守ることにもなるんじゃない?」*2
やがて、失った記憶を取り戻す過程で、恐怖を感じ自暴自棄気味になる翔一は、真魚から喝を受け「誰かのため」だけでなく「自分のため」に戦うことで強くなることを選びます。
五代というのは冒険家であり「2000の技」を使いこなすので、割と超人なんですよね。一方で、先ほど大先生が「仙人」と言っていましたけど、翔一は意外と超越的なところが少ないんです。むしろ記憶喪失も含めて、欠落している部分がある。
先日公開された、白倉さんと井上さんのインタビューでも言及されていたように、五代と翔一の違いがまさにここ。
翔一は「自分のためにも戦いなよ翔一くん」周りを機に、アギトであること以外は、二十代前半の青年らしい素朴さがあることが分かる。だからこそ、戦う理由に自分自身を入れることが出来る。戦う理由に自分自身を入れることは、同時に何のために自分がどう在りたいかを正しく見つめることも含まれる。つまり、自分が何者であるかを知り、自分が何者であるかを他者に見せることにもなる。それは、記憶喪失以前の自分(沢木哲也)という過去に回帰することではなく、記憶喪失を経てアギトの力を得た自分(津上翔一)が未来に向かって生きていくことを強固にすることである。そして、未来に向かって生きていくことで翔一自身にも「新たな居場所」が見つかるようになる。……『アギト』再視聴以前、記憶がだいぶ飛んでいたこともあって、不意に「『アギト』ってどんな話?」と聞かれて困り「翔一くんが自分のレストランを開くまでの話」と答えていたんですが、この答え方は間違ってないんだなと気づきました。
さて、次に『アギト』が「居場所」の物語であったことについて印象深かったエピソードをば。
第31話「人の居場所」
「結局おれは……おれの居場所を見つけることができなかった。おれの場所は、思い出の中にしか無かった」
相良克彦の話をしたい。
再視聴にあたりこのエピソードがすっかり抜けていた過去の自分の頭をひっぱたいてやりたいが、この31話付近と言えば、V1システムvsG3-X、一時的に記憶を取り戻す翔一、葦原と少年回、フライパンテニス、極めつけはヒステリックホラー女の関谷真澄のインパクトである。どうやらこの情報量で抜けていたらしいが、再視聴で新鮮に心をえぐられたのがあかつき号の被害者、相良克彦でした。
葦原を手にかけたのは相良だった。
理不尽にもアギトの力を得てしまい、そのせいで愛する人を突き放すあまり逃げられてしまい、放浪するような日々を過ごす。これだけの境遇をさらえば葦原とよく似ているのだ(なんなら髪型も似ている)。自分は何者かと微かな未来に向け奔走していた葦原を殺すことは、それすなわち、相良が自分自身の可能性を殺すのも同じではないかと思いました。
葦原は不本意に得た力を守るために行使しているが、相良は、沢木によってアギトの力の覚醒を早めさせられ、目覚めた力で「破壊」を選んでしまった。その理由に超能力者の仲間を集め「超能力者の居場所」を作るためがあったとしても、真魚の誘導のために真魚とその周囲に危害を加えてしまっては本末転倒である。それでも「超能力者の居場所」を作ることで自分自身がどこか安心したかった、もしくは、愛する病弱な妻の代わりに妻の見たい風景の写真を撮りに行くぐらいの男なので、同じ境遇の心細い思いをする仲間のために、卑怯な手を使っても安心させたかったのだろうか…。
もう一つ、相良の特徴はアギトの力の覚醒は、破壊だけではなく自他の治癒能力があったこと。怪我をした見知らぬ少女の傷を治すことが出来る力と、心の優しさを持っていた。だが、傾倒していったのは破壊のほうだった。そして、一見「余計なことを…」に見えてしまうが、そもそも沢木がアギトの力を覚醒させているのは、悪事のためではなく、アギトを救うため、アギトの力の可能性のためである。しかし、その結果は榊亜紀もろとも破滅でしかなかった。 だからこそ、同じアギトの力を持ち、他者と自分と未来のために戦える葦原や翔一とは対極となってしまい、「アギトとしての悲劇」に堕ちてしまうことになった。
極めつけは最期に選んだ場所が、思い出の中であったこと。過去を生きている者に、居場所も未来も無い。きっとやろうと思えば、あのタイミングで自己治癒を発揮して生き延びることも出来たと思う。それをせず、真魚にすべてを明かしたことは、相良の良心であり懺悔であったのだろう。 最期に相良の持っていた枯れた花の残る鉢と庭の花が咲いたのは、色んなサイトによっては「真魚の力」と書かれているんですが、あれは相良の治癒能力≒蘇生能力だと思いたい派です……そのほうが……文脈に合いますし、何よりドラマチックじゃないですか……超全集か何かで言及されていたら黙りますけど。でも多分、木野薫の最期も思い出の中の雪山で共倒れせず、雅人を抱えて助かる道を探そうとする映像で終わっていたので、やっぱり死んだ者に寄り添いたい。なお、木野薫の最期については、過去の中に生きていることへの執着のほうがニュアンスとして強く感じてしまいました。……こう書くと、相良が最期に花を咲かせたことも、思い出への執着ということにもなるんだよな。でも木野さんは暗く感じ、相良はまだ温かさを感じた。
あかつき号の乗客全員に言えることなんですけど、中盤までの過程を見た後に見る42話「あかつき号」のしんどさったらありゃしませんでした。この回はドラマとして圧巻で、その意味でクウガのハイライトが48話「空我」なら、アギトのハイライトは42話「あかつき号」だなと思いました。水のエルが「お前たちに未来はない」と残酷な宣告をし、荒れ狂う海の回想が終わってすぐに、すべての記憶を取り戻した翔一が立ち上がり「誰も人の未来を奪うことはできない!」と叫ぶ。これまで、その残酷な宣告通りに悲惨な死を遂げてしまったあかつき号の乗客たちのこと、穏やかな船の上では各々に未来を語っていたこと、そのすべてがリンクして翔一の叫びに繋がるわけで、正義のために立ち上がるとはかくあるべきだと感動しました。
ところで、「あかつき号」の撮影、いつ頃だったんでしょうね。序盤の人はかなり期間空いたように見えるので、この人数揃えるのは大変だったろうなあという感じがしました。
G3ユニットの話や、北條透の話や、葦原の話や、ドラマの演出の話など言及していないことが多すぎますが、いったんこの辺りでキリをつけます。心残りがあれば、感想二本目のブログを書いていきます。あとこれを踏まえて、PROJECT G4の感想も書き直したい気もします笑
さて、『アギト』を復習したところでいよいよ明日は『アギトー超能力戦争ー』の公開日です。 情報公開から今日まで、新しい情報が出るたびに期待と不安が両極端に跳ね上がる心持ちでいます。『アギト』本編であかつき号の乗客たちが、その力のあまり破滅に向かうことを余儀なくされたことを思うと、予告で見える25年後の世界には「どうしてそんなこと」と思わずにはいられない反面、起こり得る世界ではあるのかと思ったり…「アギト」の力が害悪ばかりになってしまうことは、沢木が残したアギトの力の可能性を否定し「きっと俺が……勝つさ!」が負けてしまうことになりかねない。期待と不安で怖いですが、目に焼き付けていこうと思います。
動き出してる、未来を止められない……